日本語教師|なぜ無資格のオンライン教師でも需要があるのか

仕事

こんにちは、フリーランスのちひろです。

私は現在、italkiでオンライン日本語教師として活動しています。

前回のブログでは1年間で稼いだ金額を計算してみました。

結果は1,819,521円となりました。

平均月収でいうと150,000円ちょいですね。

ちなみにこの数字はitalki手数料15%を差しひいたあとの金額です。

資格なし&未経験というド素人のわりには、なかなかいい数字ではないでしょうか。

そこでふと、疑問がわきました。

“ていうか私の生徒たち、なんでこんなド素人からレッスンうけてるんやろう” と。

資格も経験もない先生のレッスンのなにがいいのかわからないんですよね。

…と自分で言うのも変だけどワケワカメなんです。

私も英語を勉強している身ですが、ぜったいに有資格の先生に教えてもらいたいです。

だからこそ仕事をやめて100万円以上をかけてカナダにわたり、現地のカレッジにかよった過去もあります。

言語学習ガチ勢ですね。

大金をはらってでも資格をもっている先生から習いたいんや!

これが私の考えです。

ですので、「無資格の先生でも気にしないさ!」という生徒の気持ちがまっっっったくわかりませんでした。

しかし、いろんな生徒と会話したりカナダで生活したりした経験から、なんとなく彼らの心情が理解できるようになりました。

そこで今回は「なぜ無資格の先生でも需要があるのか?」を考察していきます。

レッスン代の問題ではなさそう

私はまず、無資格の先生をえらぶのはお金に余裕がない生徒なのでは?と推測しました。

italkiでは教師が自分でレッスン代を設定します。

有資格の先生が1時間レッスン3,000円前後なのに対して、無資格のわれわれは1,000円前後が平均値かな、という感覚です。

しかし、予算を理由にド素人先生をえらんでいる生徒はかなり少数な気がしています。

その理由はふたつあります。

ひとつめの理由は生徒たちの “職業” です。

私の生徒は投資家や弁護士、医者など、どの角度から見てもお金持ちに分類される職業についている人だらけです。

うらやましい限りです。

いまのところは投資家がいちばんおおかったりします。

お金を使いたくてしゃあない人たちですね。(偏見)

ふだんから何億という単位で株を買ったり売ったりしている人間が数千円を節約するために安価なレッスンをえらぶとは考えにくいです。

ハイリスクハイリターンを好む彼ら(偏見)なら、むしろ有資格の先生をえらぶのが筋でしょう。

けれど、現実はそうではないのです。

ふたつめの理由は彼らの “レッスンの取りかた” にあります。

私は週に3〜4回ほどレッスン予約をする生徒がおおいことに気づきました。

さらに上をいく生徒は週5〜7ペースです。

ド素人先生の1,000円レッスンを週5ペースでうけるとすれば、1週間で5,000円、それが1ヶ月となると20,000円になります。

結構な金額ですよね?

レッスン頻度を週2にへらせば、ほぼおなじ予算で有資格の先生から学べます。

それでも一定数の生徒はあえて資格なしの先生をえらんで月20,000円を支払います。

この観点からも、金欠でプロの先生のレッスンがとれないという状況でもなさそうだと言えます。

日本人ほど正確性にこだわらない外国人

お金の問題で安価な先生をえらんでいるのではないとしたら、なにが生徒たちをド素人教師へむかわせているのでしょうか?

それは生徒たちが目指している言語レベルにヒントがあるように思います。

というのも、外国人は日本人ほどこまかい文法を気にしていないからです。

これはカナダで生活したときに感じました。

現地ではほんとうにたくさんの英語学習者にであいました。

ブラジル人やフィリピン人、パナマ人など人種はさまざまですが、大変失礼ながら発音も文法も正確とはいえないレベルでした。

それでもめちゃめちゃ自信満々で堂々と英語を話しているんですよね。

発音がわかりにくすぎて「え?ごめん、なんて言った?」と聞きかえすと、「なんでわからんねん!」くらいの態度でリピートしてくれるという有り様でした。

なんや、その態度は!!!!(おこ)

日本人によく見られる「私の発音大丈夫かな…?文法もまちがってないかな…?」という不安感がいっさい感じられません。

さらに、italkiの生徒にもよくあるのが「ぼくはもう日本語が話せるよ!」と言いつつ、あいさつのフレーズしか知らないというパターンです。

それはそれでいいんです。

でもはたして、“Good morning” や “Thank you” しか言えない日本人が「私は英語が話せます」と言うでしょうか?

おそらく言わないですよね。

ですので、そもそも外国人と日本人のあいだには「このレベルまで話せたらOK」という基準にギャップがありそうなのです。

いわば日本人の言語学習の理想はたかく、より完璧さをめざす傾向にあります。

一方、外国人はコミュニケーション重視のため、細かいことは気にせずなんとなく話せたらOKな場合が多数です。

それをふまえると、先生が有資格でなくてもネイティブ日本人でさえあれば十分彼らの相手ができると思いませんか?

趣味で日本語を勉強している外国人がおおい

言語のなかでの日本語の立ち位置も、生徒たちの “なんとなく話せたらOK” を助長します。

そもそも日本語は英語とちがって「話せないと困る!」という人がすくないです。

なぜなら、海外の義務教育のなかに日本語が組みこまれているわけでもなければ、日本語が話せなくて就職に不利になるわけでもないからです。

だいたいの生徒の目標が日本旅行や日本文化を楽しむためだったりします。

つまり、ただの趣味です。(言いかた注意)

もしくは、金持ちの自己啓発です。(だから言いかた)

これらの表現は語弊がありすぎるので正しく言いなおすと、“趣味的要素がつよい” ということになります。

要は、受験や学歴・キャリアのために英語を勉強している日本人とは状況が異なります。

もちろん、日本への移住や就職のために勉強している生徒もいますが割合としてはそれほどおおくないです。

だからこそ、資格なしのド素人先生でも入りこめるスキがあります

いまはYouTubeやPodcastなどでも気軽に言語学習できる時代ですよね。

ある程度の独学+ネイティブ日本人との会話で実力試しをしたい生徒にとっては無資格の先生で十分、というわけです。

指摘をしすぎないほうがよろこばれる!?

すこし余談ですが、生徒たちはレッスン中にミスを指摘をされて会話の流れがとまるのをひどくきらいます。

やはりコミュニケーションに重きをおいているせいでしょうか。

私は生徒が話している最中に誤りを発見しても、その都度修正はしないようにしています。

話をそのまま聞きつづけながらチャットボックスに正誤をタイプしたり、生徒が話しおえたあとで総括として指摘

これが私のやりかたです。

無資格ド素人のため、ほんとうに生徒のためになっているのかどうかはわかりません。

ですが、「会話のさまたげのすくなさが最高だよ!」と生徒からは評価してもらえています。

(手前味噌みたいで恐縮です)

熱意や責任感がつよい先生ほど、こまかく指摘をしてあげるのだと思います。

しかし、無資格の先生を好む生徒はそこまでの厳密さは求めていないようなのです。

ただただ会話や日本語を楽しみたい、といったところでしょうか。

逆に、本格的に言語学として日本語を学びたい生徒にとって資格がない先生のレッスンは物たりないでしょう。

だからこそ、語学学校や大学の日本語学科へかよう生徒も存在しています。

教師は、生徒が目指しているレベルによって指摘の度合いを変えてあげるのも重要なのだと気づかされました。

あとがき

いかがでしたか?

italkiでレッスンをしてみて、わりと気軽に日本語を学んでいる生徒がおおいと気づいたことから今回の考察に至りました。

「だからわざわざ資格なんてとらなくてもいいのさ!」と言いたいわけではありません。

生徒からお金をうけとる以上は資格の有無にかかわらず、正しい日本語を教える責任が生じます。

資格を持っていなくても自分なりに教授法や正規の日本語を勉強するのは最低限のマナーです。

ここでお伝えしたかったのは「資格がなくても挑戦できる土壌はある」ということです。

世界には「ネイティブの日本人と話せたらそれでいい」という学習者がたくさんいます。

ですので、興味はあるのに「私は資格がないから…」と気後れしている人がいれば、チャンスを逃すのではなくぜひ挑戦してほしいです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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